気で観る身体



 気とは何だろう?
   ―気を実際に感覚すると云うこと

 ●身体気法会とは?
   ―気の動きに寄り添うこと
   ―身体の大きな周期
   ―身体の呼び声に振り向く

 



気とは何だろう?

 気を実際に感覚すると云うこと

 ここで云う『気』とは、不可思議で謎めいた現象やエネルギーのことではありません。

 それどころか現代のさまざまな運動療法や心理セラピーに相通じる「感覚」なのです。

 それはひとつの「身体感覚」であり、

 身体に起こる感覚をどのように、どんな感じでつかむかと云う「認識法」といえます。

 『気』と云う感覚は動きの中に感じるもの、主に運動系の領野で起こるものと

 「感応」と云う物理的な反応の二つの側面があります。

 身体の中には「こう動きたい」と云う道筋があります。
 
 それと対称に逆に動きがたい方向と云うものもあります。

 こう動きたいという身体の動きのライン「動線」を感じ、掴むことが気を実感する第一歩です。

 たとえば、腕を上げる動作を行なう時、この方向では腕がすううと軽く上がるのに

 別の方向では少し重く感じると云うことがあります。

 この軽く上がる道筋を緻密に感じ取りながら、まるで誰かに腕を持って引き上げられるような

 ふわっと浮き上がる程に軽く動く方向を見つけ出すのです。

 この感じがだんだん掴めてくると、動きの一歩手前にこう動きたいんだという

 先導する動きがあることに気付いてきます。

 欠伸(あくび)やクシャミを出す前に「出る」、あるいは「出したい」と云う、もごもごした

 感じがありますが、この次の動きを先導する「兆し」のようなものを

 身体の要求するものを感じよう、掴もうと意識すると感覚できるものです。

 このような動きの前にあって、動きを先導する「要求の動線」と云うようなものが

 『気』と呼んでいるものです。

 この『次の要求の動線』に慣れ親しんでくると、だんだんと自分の身体だけでなく

 相手の動きのラインも掴めるようになってきます。

 相手の身体の中に起こってくる、起こりつつある「要求」を動きとして感じられるように

 なるのです。

                    

 


身体気法会とは?


 気の動きに寄り添うこと


 本会は身体の抱えるさまざまな不調、変動を『気の動き』を読み解くことで

 身体の全体的なバランスを図り、身体のもつ調整能力に働きかけることを目的としています。

 身体は本来、その人の持っている体力を温存しておりますので、その道筋を

 つけてあげることで、潜在体力を十分発揮させ、復元力を呼び起こすことが出来るのです。

 異常感と云うものには、中心の痛みの部位のみでなく、その異常を引き起こす原因、遠因としての

 つながりの異常のラインと云うものがあります。

 感覚できる異常感や表面化した症状は対症療法によって抑えることは出来ますが、

 異常を引き起こした原因、遠因については変化を及ぼすことが出来ません。

 身体の全体的なつながりを視野に入れない限り、このラインを見出すことは出来ませんし、

 身体の持っている自律的で平衡的な調整力を、何にまたどのような動きに見出すかにもよって

 病変の経過と治癒にいたる『深度』が変わってくるといえます。

 本会においてはこれを『気のライン』によって掴みます。気の滞りのラインを見出し、

 その焦点の点々とした経路を押圧や、手当てによって身体の復元力に呼びかけてゆきます。

 喩えば、膝の異常を膝裏の点(スポット)、内側の脛の点から足首、足の甲の点や、

 大腿部裏側や、背面の肋骨の下部の点(スポット)にまで遡って処置してゆきます。

 気の動きには、次の変化への動きと云うものがあり、ある程度、最適な順序と云うものが

 あるため、次の点(焦点)をその時に見出しながら施療してゆくのです。

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 身体の大きな周期


 気の動きと云うものには、もう少し、大きな視野での波と云うものがあります。

 身体の波とも、気の波とも呼びますが、人生の大きな節目や変化を決定付けているものです。

 思うに、人が生きてゆくうえで、完全なバランスと能力を全開することが出来て、

 らくらく人生を送るということは、ほとんどあり得ないことといえます。

 境遇においても同じで、望むべき最良の状況で物事が経過してゆくことなど、起こりえません。

 どこかに欠くものがあり、望まない状態を強いられながら、なお多いに偏った主観で

 その時点での持ちえた力を精一杯に発揮しようとするのが人生といえます。

 偏っているがためにその状況を狭め、それぞれ困難を呼び込みながら、

 その個性的で特徴的なひとつしかない感受性を、追いつめて、追いつめて

 全力を振り絞ろうとしているともいえます。

 「順風満帆」と云う状態は長くは続かず、

 「楽々悠々」は見果てぬ夢とも思えます。

 「好事魔多し」は勢いのあまりの突っかかりでありながら、内省と云う一点を

 与えてくれます。

 「念ずれば現ず」は飽まず、厭まず「幸運は遅れてやってくる」ことを疑わず、

 掴まないこと、放すことが肝要なのです。

 生きることに意味はないとも、生きることに意味があるともいえず、

 なるようにしか成らないが、なるようには成る。と云うのが実相ともいえます。



 この個性的で特徴的な感受性を解き明かし、体系化したものに

 野口整体の要諦のひとつである【体癖】という観察法があります。

 人の感受性の偏りを見事に説き、身体と心の深いつながりを

 開示していて、身体気法と云うものの基本でもあるのです。

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 身体の呼び声に振り向く


 個性とは、ズレでありその勢いがどの方向に向いているかに関わる

 身体の表現だといえます。

 身体の大きなうごめきである勢い、ダイナミズムというものが発散の方向にあるか、

 集注の方向にあるかによって、全体的なその人の印象と云うものが生まれるのです。

 明るいとか、暗いなどの大まかな印象や、プラス思考とかマイナス思考などと云う感受性の方向は

 少しづつズレ、偏りながら踏み出されたその人にしかない歩み方といえるのです。

 身体気法会は、このようにさまざまである一人ひとりの体癖的な感受性を観察し、

 お教えすることで『自分を振り向く眼差し」と云うものを育ててゆきたいと考えます。

 自分を振り向く視点が培われることで、困難な中にも悠々とした息を見出すことが出来るものと

 確信するのです。

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