志向する身体


  ●無意識と身体
    ◇記憶すると云うこと
    ◇身体の中の記憶
    ◇刻印された記憶の形
    ◇鈍りとストック化
    ◇無意識の動きが運動系に結ぶもの
    ◇無意識が意識を必要としたわけ
    ◇『自己』の時代
    ◇『予感的行動』とは何だろう



 ―無意識と身体―


 ◇記憶すると云うこと


 見聞きし、感じたものは全て、意識に昇る、昇らないに関わらず、

 全て記憶されているといいます。

 頭の何処かにストックされていると観ています。感情や思惟を媒介しない形で素のまま記憶されているのです。

 知らぬまま記録されているビデオカメラのようなものです。


 無意識がその膨大な情報を取捨選択して、意識に昇らせたり、
あるいはイメージと掛け合わせて

 閃きとして、創造性の初動要求
に変化させるのですが、多くは、忘れると云う作用によって、

 最も生命効率のよいものだけを
意識に昇らせ、集注を促すのです。

 ただ、効率性だけが基準ではないようです。身体の精妙さは、非効率なものをわざと残し、

 個体の全エネルギーを
使って、難問を解くように仕向けることもあります。


 さて、忘れてはいても、ストックはされているので、取り出しは可能なのです。

 そこで「記憶する」と云うことについては、努力はしません。

 逆に「思い出す」、必要なときに必要なコトを思い出せるような練習、訓練をします。


 時計の音を数えると云うことを、最初は枕元に置いて行ないます。

 そこから順次離して部屋の外、次に階段を下った階下と云う具合に遠くに持ってゆくのですが、

 集注すると不思議にちゃんと聞こえて、数えられるのです。

 あるいは、一日の終りに朝あったことから、逐一思い出してゆくのです。自分の行動に沿って、

 眼に入ってきたことなどもすべて思い出して
ゆきます。


 こう云ういくつかの訓練によって、さっと必要なときに、ふと思い浮かぶ
ものが生まれるのです。

 一般的にも集中力が非常に高まった状態においては、このようなあるイメージ、感覚として思い浮かぶ

 ものがあります。
当初は何故そう思うのか判らないのですが、

 後で必要なものが
取り出されたのだと納得がゆくのです。(予感的行動)

 これが、判断力の訓練にもなるのです。


 またどんな質問にも答えなければいけない、
と云う訓練があります。瞬時に答えを出さなければならないのです。

 正確であったり、正解である必要はないのですが、その時にもっとも必要な答えが引き出せればよいのです。

 これが、「無意識と無意識の対話」ということに、つながります。

 意識に昇るより先に、身体が反応して(気の同調、感応と言ってます)相手の身体に働きかける、

 無意識のレベルでさっと反応して必要な急所を押さえられる、掴めると云うようになるのです。

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 ◇身体の中の記憶


 さて、身体にもこのような、ストック作用があります。

 トラウマについて、現在は一般的となっておりますが、トラウマはいわば、身体に刻印された心の打撲、

 といえます。
つまり、身体の何処かに必ず、その衝撃が残されているのです。


 腹部にその観察点があるのですが、
そこで、その人が何処で吃驚したかが、判るのです。

 (喩えば、胃袋で驚いているとか、肝臓で衝撃を受けたなどです)

 深く衝撃を受けるトラウマ(心的外傷)は、深い位置で、その姿をとどめています。

 硬結」と云うのですが、字の通り、傷や障害(つまり鈍り)が硬く、結ばれたものとして、

 小さな粒状の塊になって、皮膚下あるいは筋肉の間奥深くにストックされているのです。

 表面に浮かび上がらせるように、気的な集注で、押さえないかぎり本人は全く、気づかないものです。

 鈍りの塊りですから、身体が耐えてストックすることで、意識に感じさせないようにしているとしか、

 思えないような
非常に精妙な作用です。


 ただ、「鈍り」であるので、常にその復活を身体は目論見ます。

 身体にとっては、鈍りは死に直結する異常事態ですから。そこで、その系統の異常感を持たせることで、

 身心の復元作用を
盛り立てようとします。

 トラウマの潜伏性と過敏性は、身体の巧妙な作為の結果ともいえます。

 死に至る衝撃を、一旦鈍りとして、ストックしたのですから。


 EMDR
は、臨床心理セラピーの一種ですが、眼球運動とカウンセリングを併せて行なうことで、

 トラウマを回復させるというのです。

 眼球を斜め上下方向に動かしながら、セラピー(問いかけと受容)を行なうのですが、眼球運動がトラウマの

 消除に
関係すると云うところが、とても面白いのです。

 「EMDR 眼球運動による脱感作と再処理法」二瓶社刊

                  フランシーヌ・シャピロ 著


 眼球の動きは腸骨の動きに関係するのです。
骨盤の底部の縮み過ぎ、

 可動性の失調は
トラウマとなりやすい傾向の人達に共通する体勢ですから、

 眼球を動かすことで、
骨盤に刺激を与えているわけで、

 トラウマを
解消させる入り口になるだろうなと思えるのです。

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 ◇刻印された記憶の形


 さて、身体が感覚する、あるいは身体そのものが執り行う「身体知」とも云うべき調整作用は、

 全方位のものではなく、ある偏在性をもっています。

 それは、喩えば先のPTSDについて「身体に刻印された心の打撲」あるいは

 「身体がストックした
集約された衝撃」と云う場合に、それは、その人の感受性の方向に沿って

 組み替えられたもの
として、残っています。


 野口整体では、感受性の違いを身体の運動領野の違いから来ると観て、

 これを「体癖」と名づけ、大脳昇華型、消化器型、呼吸器型、泌尿器型、生殖器型に分けて

 感受性の違いを明確にしていますが、これについては、ここでは詳しくは述べませんが、

 喩えば、線を思い描いてくださいと言われて、頭の中に縦のラインを描く人と、

 横のラインを描く人が
居ると云うことです。

 どちらもその人にとっては「線」なのですが、一方の人にとっては「線」と云う感じがしないのです。


 喩えば、林檎と言われて、赤と云う色を思い起こす人と、
匂い、酸味を思い起こす人、

 シャリっと言うかサクっというか
あの歯ごたえを思い起こす人が居るような具合です。

 歯ごたえを描く人は、ゴールデンデリシャスのぼそぼそした噛み応えをまずいと感じ、

 林檎ではないと思うのです。

 色を思い起こす人は、さほど抵抗が無く、柔らかく、口の中でポソっと溶けるようだわと、

 満足できるのです。

 感受性の方向によって、心理的な衝撃を受ける部位が異なるのです。

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 ◇鈍りとストック化


 喩えば、ある人が仕事の上で関係する相手の振る舞い、あるいは意見や要望に

 大変な不快感を持ったとして、
立場上この不快感を表現できないとします。

 この相手との関係が続く限り、この人のストレスは常駐化し、

 やがて本人が感覚できない潜在ストレスとなってゆきますが、不快感はやがて薄れてきて、

 当初(特に第一印象ですが)の
感覚ほど強烈な情動を起こさなくなります。

 適応したのかなと本人は思いますが、仕事を終えて帰宅するや、大変な疲労感を覚えるようになります。

 これが「鈍り」による障害のストック化です。


 本来ならば、感情を表に噴出して、個体としてのバランスを
保ちたいところですが、

 意識的に、あるいは、条件反射的に
抑制されることで、行き場のないこの不快感は

 身体のある部位に、集約されて、硬く結ばれます。

 結ばれることで、不快と云う感覚は感じられなくなりますが、
「鈍り」として蓄積されてゆきます。


 この人の腹部を観察しますと、喩えば左肋骨弓下部、胃袋の
辺りに広く硬張りが観察されるはずです。

 あるいは、ずぶずぶの弾力のない中に、しばらくすると小さな塊りが浮かび上がってくるでしょう。

 この人のストレスはこうしてストックされているわけです。

 しかし、触れなければ本人は全く気が付かない。別に胃袋の違和感としては意識されないのです。

 あるいは人によっては、右肋骨弓下部、肝臓の辺りにこの硬張りを見つけられるでしょう。


 果たしてこれが脳の指令によって、行なわれているのかは判別が出来ません。

 痛みや過度な不安に対して脳神経ネットワークにて自家用麻酔作用が発令されて処理されたり、

 「忘れる」ことで貯蔵されるメカニズムは発見されていますが、

 喩えば、この人の頭を刺激しても、潜在ストレスは溶解することはありません。

 腹部の硬結を処理しない限り、表面化し、鬱散させることはかなわないのです。


 胃袋で怒った人、肝臓で驚いた人と感受性のタイプの違いで

 外からの刺激に反応する身体の部位が異なるのです。そしてその感じ方も勿論異なる。

 イメージされるものも異なる。

 同じ言葉から感じるイメージは同一ではないと云うことです。

 どうやってお互い分かり合えているのか不思議なくらいです。

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 ◇無意識の動きが運動系に結ぶもの


 昔、うちの下の子がまだ小学1年くらいの頃、大好きな朝ごはんが出て、

 パジャマを着替えるのももどかしいように、大急ぎで服を着て、テーブルに飛びつこうとした時、

 本当にアニメか何かのように、上半身を斜め45度くらいに傾斜させ、

 なかば宙に浮かびながらズボンを上げて、
テーブルに向かって突き進んでゆきました。

 「飛びつく」と云う言葉がピッタリの身体所作でしたが、これには、ビックリしました。

 ズボンを引き上げる動作と前に進もうという動作が一緒になって、

 ジャンプするような格好になったのですが、
通常のジャンプのように足首か膝にタメをつくって、

 1、2で飛び上がっているのと違い、まるでテーブルの磁石か何かで引っ張られるように、

 全くタメが無く
引き上げるエネルギーだけで、飛び上がったのですから、

 1で動作が行なわれたわけです。その速さたるや、大変なものです。

 2ですでにテーブルに
到着していたのですから。

 意識的にジャンプしようとすると、こうはゆきません。

 大人に果たしてこう云う動作が出来るだろうかと思いました。

 どうしてこんな事が可能なんだろうかといえば、身体がひとつになって動いているからです。

 身体のみならず、心、イメージと身体が全く不可分の一体となって、

 動作が行なわれているからなのです。

 大人でも集注した動きでは、身体がひとつになった動きをします。

 よく言う丹田を中心とした動きであり、今風に言えば
体幹(身体の中央のラインのイメージ)を

 中心にした動作
といえます。

 裡側から起こった要求に基づく動きは、すべからくこのような身心が統一された所作を生み出すのです。

 美しく、無駄が無く、見ていて心地よさ、清々しさを覚える所作です。


 匠と呼ばれる名人の人達には、完成された「完全なイメージ」
と云うものが、

 無意識の中に存在しています。

 表現したいと云う要求が生まれると同時にすでにこの「イメージ」が、形作られていると感じます。

 それは無意識下にあって、意識には滅多に昇ることがありません。

 意識されたイメージは、多くは作成のプロセスでの一歩先のもので、

 「具体化」のための意識化といえるものです。

 何故、無意識下であるかといえば、無意識のみが身体に働きかけるネットワークを形成できるからです。

 また、身体の智恵も無意識にのみ、連絡できるからです。


 前の席の客に料理が運ばれてきた時に、皿の中に店員の
指先が入ったのを、

 何気なく見た時、いやだなと云う
ふとした空想が「無意識」に起こると、

 自分の料理が運ばれて
きた時に何故か、不安と不快感が先に沸き起こり、

 料理を美味いと思えなくなるのです。無意識のイメージのみが身体に実現するといえるのです。

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 ◇無意識が意識を必要とした訳


 では、意識とは何でしょうか?

 何故、無意識は意識を必要としたのか、意識は何を、無意識や身体にフィードバックしているのでしょう。

 仮説として、「身体智」側からの考えとしては、言語が、シンボルとして、

 種族保存、個体保存の要求から
生まれた過程と密接にリンクしていると考えられます。

 非常にユニークな研究をしている岡ノ谷一夫と云う人の

 ジュウシマツの歌の文法の進化の発見がありますが、

  「小鳥の歌からヒトの言葉へ」岩波書店刊
                    岡ノ谷一夫 著

 メスの関心を誘うため、鳴くバリエーション(音律)を競いあうかのように発展させた

 小鳥の歌の秘密が、丹念な
聞き取りとパターン化の研究で発見されてゆく様を報告しています。


 言語がまず、種族保存に関わる性淘汰のメスへのウーイングとして、

 シンボル化されて登場したで
あろうコトは想像に難くありません。

 シンボルと云うものが持つ「突出した明確性」と

 「その背後に
見えない不可解で広大な世界を予感させる」性格が無意識から生み出され、明確化された

 とたん、無意識の中から
ある一部を浮き立たせ、集合化することに成功していることを考えると、

 意識を何故無意識が必要としたかが推測せられます。


 ―
広大無辺といったり、膨大と云うのはこの無意識の 曖昧さ、形のなさ、捉えがたさを言っています。

 集合すると何らかのまとまりとして、性格付けも出来ます

 (喩えば、無意識のコンプレックス等で、父親の影響が
甚大であるとか、色分けが出来るわけです)、

 そのままだと、「無い」に等しい存在です。ただ、何か出てきそうなエネルギーの海のような様相です。


 シンボルを記号化と捉えると、そんな曖昧なものは感じないだろうと思えます。

 喩えば、山といえば山じゃないかと。
風といえば、風じゃないかと、

 今頬をすり抜けて逝った一枚の
風そのものじゃないかと人は言うと思います。


 けれど、山といえば、目前に山が無くても「山」を思い描け
感じられる、

 眼前に山が広がっていたとして「ああ、山だねー。」
と云う人は、今はほとんど居ません。

 木が鬱蒼として絡まる中に力感が感じられ、その力感の大きな集まりが山になっているね。

 とか「まあ、おおきいわー」などと
何か、性格付けをするように別の言葉で表現しようとします。

 それは、「山」と云う言葉が、ある一団の無意識の集合化を図っていて、

 イメージとしてすでに「感じ」として掴んでいるから
です。


 「表現」とは、近現代にあっては、全ての人の生命の発現とも
いえる重要な行為です。

 もはや、もの造りをする作家や、芸術家やスポーツアスリートなどの特別な人たちだけの

 特権行為ではないのです。
仕事においても「表現」と云う自己の露出をどこかで図ろうとします。

 仕事をしていなくても、大人でも子供でも、「自分だあー」を表出しようとするのです。

 これが生命の要求であるのです。

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 ◇『自己』の時代


 かつて「共同性」と云う言葉で、個人ではなく集団で考え、


 集団で表現される時代が「自我の時代」の以前にあったと云う考えが流行りました。

 「自己表現」ではなく「共同表現」です。

 「自分だあー」が解りにくいですが、「要求の発現」としての「表現」として、確かに存在する状態です。

 動植物の生命の発現形態がこれに近い感じがします。

 「自己表現」の時代にあっては、「表現」は「創造」と云うことを絡めてきます。



 バッハの時代、創造活動はあるパターン上の決まりごとの
枠の上でなされることで、

 突出してもいけないし、決められた
持ち駒をどのように配列させるかが、

 「創造」の最大の表出
であったのです。これを極め、美しく壮大な世界を構築したのがバッハですが、

 これをモーツァルトの奇跡に触発された
ベートーヴェンが「自分だあー」をなかば癇癪のように表出して

 (やたら大きな音の幾度もの打音で、それまでの
霊妙な音の絡み合いを打ち消すかのような、

 突出した
叫びで圧倒的な「自己」を力づくで表現したのです)、

 「オリジナル」と云うものの到来を高らかに宣言しました。


 いったん「自己」が規定されると、(「共同性からの孤児化」
 
 「自分」という極めて狭い出口からの表出は、生命にとって
大変な負荷をかけることともなりました。

 「要求の実現」と云う生命活動を、「自分」と云う狭い出口から出さなければならないとなると、

 無意識の、訳のわからない無分別なものさえ、素の形で出してしまうこともあるのです。

 (情動の直截な行為)

 しかし、これは個体の生命維持にとって大変危険性が高い行為ともいえます。

 そこで、無分別を「創造」と云う形でコーディネイトして、楽しさを覚えるものとしなければ、ならないわけです。

 この無意識の動き全般(脳神経ネットワークの統制によるとも言えるかもしれませんが)

 は「創造性の初動要求」と
もいえるものです。

 この発現の形態が、あるイメージを伴った閃きのように意識化されるのです。

 これを形あるものに、現実化しようと意識は「裡なる要求」を感じて行動を起こそうとするわけです。

 (しかし、本当は
起こそうとするだけで、実際の行動はすでに身体が起こしているのです。


 喩えば、ある人がチョコレートケーキにはまったとします。

 その店のそのチョコレートケーキと云う具合で、
毎日のように食べないといられないわけです。

 しかし、これもこの人にとって、「表現」なのです。

 飽きるまで食べ続ける、と云う行為の中に、度を越えたものがあるとすれば、

 それは食べた瞬間に感じた「何か」を
もう一度再現して感じたいからであり、

 最初に感じた「何か」は
どうしても自分の中で再現出来ない、表現されないことからくるのです。

 最初に感じた「何か」は、無意識に入ってしまったのです。と云うより、

 身体が感じたものであるため、数パーセントの
情報だけが意識化され、

 その感じた快感は無意識と身体に
残っているのです。


 ところで意識はこのおいしさ、「何か」を表現したいと繰り返し行動をする訳ですが、

 すでに初発の要求とは
捻れたものとなっています。

 二度食べれば、要求は満足して、収まるものですが、何度も繰り返すという行為の中には、

 無意識の何らかの
意図が感じられます。

 これは、身体の中に残った生命維持にとって「邪魔」な記憶を、この行為に絡めて、

 鬱散させようと意図していると
考えられます。


 最近、「マイブーム」と云う言葉が発明されて、この一連の
行為が異常なことではないと、

 不安なことではないんだと
心理的に「規定」されました。多くの人はこの言葉に乗っかって、

 普通のことのように話し、振舞うようになれました。

 このため無意識が集合化されてしまい、身体と無意識のネットワークが意図していたことは、

 全く無力化してしまいました。

 次の機会を待つしかないのです。

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◇『予感的行動』とは何だろう


 人はたまに意識的にではなく、何気なくとった行動が、後々になって極めて予感に満ちた

 行動であったと吃驚する時があります。

 「虫の知らせ」などと呼ばれ、少なからず経験された方はいらっしゃると思われます。

 何故、、そうするのか、そう思ったのか判らないまま後々になって、それが予感であったと

 判るのですが、このような予感的な動きは何処からもたらされ、何が感じ取り、

 何故、そのように行動につながってゆくのでしょう。

 たとえば先日、普段通りなれた道筋を、ふと途中で今日はこのまま真っ直ぐに進んでみよう

 かな、と思ったのです。

 ちょっと遠回りになるけど、まあいいかと。そこで、普段は曲がらない一つ先の曲がり角で

 曲がろうと、信号を行過ぎたのですが、交差道路を見ると向こうの端で道路工事、通行止め

 をしている。

 つまり、普段どおりに行っていたら通行止めを食い、細い迂回小路を通らなければならな

 かったと云う事です。ふうーと一息吐いた訳ですが、まったく考えもしなかった予測がなぜ、

 ふと閃いたのでしょう?

 また、Kさんと云う若い女性は、帰宅した際ちょうど兄弟が出かけるところで、本当にふと、

 財布っ!と思ったそうです。何故、そう思い浮かんだか判らないし、何か意味があるのか

 思い当たることもないので、そのまま見送ったそうなのですが、後で、その弟君が財布を

 忘れたまま出掛けて大変困ったと云う事が判ったというのです。

 このKさんの例など、大変不思議な予感です。

 本人自身と直接関わらない事態の予測なのですから。兄弟と云う近い関係であるからとも

 考えられますが、予感の中にはまったく離れた「他人」の何らかの事を予測することも多々

 あるのです。

 所謂、予知能力と云うものが世の中には喧伝されています。

 あらゆる立場の人がその真偽を、あるいは擁護しあるいは反駁し、とその不可思議な力の

 正体を知りたいと、考えるのですが、追えば逃げ、離れれば近寄ってくると云う影のような

 具合で、尻尾を掴んだかと思うと、全然別物の尻尾だったりするのです。


 予感的行動は、意思や意識的なアプローチから遠ざかる性格を持っているのです。

 願望であったり、意図的であるとたいてい外れてしまいます。

 思いがけず、ぽっと思いついたものが「予感」で、当初は何で?と、大概、疑問に思うの

 です。

 それで、意識的な反応で否定してしまうと、あとあとその正しさが痛感されるというわけです。




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